初介護職、中年新人だった私。最初はどこから見ても役立たず。先ぱい職員たちがフル稼働で介助している中、身体を支える介助は素人がヘタに関われないし、近くに居ては誘導の邪魔、、、と雑用に逃げていた逃げ腰野郎でした。
そんな私に、先ぱい職員は、ある利用者のおじいさんの相手を命じたのでした。
昭和の大工の棟梁か、はたまたその道の人かと思いたくなる強面に恐れおののきつつ、とりあえず横に座る。
どう接していいのか、ただ気まずい空気が漂う中、おじいさんが何かをしゃべって来た。
おじいさん「〇△◇□▽×〇△◇□▽」
私の心の声「えー?!言葉がわからない。いやそれ以前に文脈が意味不明すぎ~~」
おじいさんは普通にしゃべってる。自分が発している言葉の無茶苦茶さは、認知症のせいでわかってない?!先輩職員に目線で「助けて~~~」と送っても、向こうは向こうで介助でバタバタそれどころじゃない。
とりあえず、「へぇ~」「ほぉ~」とあいまいな相づちで時間が早く過ぎ去ることを願うばかり。
来る日も来る日もそのおじいさんの席に行っていると、だんだん相づちが上手くなり、その後、おじいさんの言っていることは言葉としてはまったくわからないけれど、目線、手の動き、発する言葉のタイミングなど全体含めて、いつのまにやら気持ちで伝わってくるという実感が持てるように。
実は、そのおじいさんは、見た目は怖いけれど、とても寛容なタイプのようで、職人のように手先が器用で、いつも何かしらの手作業をしていて「こうすれば上手くいくんだよ」的に説明してくれているような感じでした。
もしかしたら「どうせワシの言ってることなどわからんやろう。このおまぬけめ」なんて言われていたのかもしれないけれど。
もし、言葉がわからないからと、相手を理解することをあきらめていたら、今の私は正直無い。今回は、言葉の壁だけで、自身の感情のコントロールは出来る人だったので、先ぱい職員は私を送りこめたのでしょう。いわば、私はおじいさんに任せられた形。
言葉というツールが無くても「気持ち」があれば、初めてでもなんとかなるもの。
ただそれには1つの大切な条件がある。
「相手を知ろうとする」ということ。
相手の気持ちに寄り添う心の有無が結果をもたらしていく。6年経った今でも変わらない。